サトくんのブログ

リニューアルに当たってなんかカッチョいいブログ名にしようと思ったけど、ぼくのブログとしか言いようがないや。

観劇07

これはよく覚えてる。また見たいな、と思う。福岡来ないかな…。雑用なら喜んでします。記事自体もよく書けてるかな、と個人的に思う。

  • 2014.03.23 Sunday
  • 22:40
鳥公園「緑子の部屋」を観にいった。
ついでにバラシも手伝った。うん、まあ、手伝わされた。
ここ最近、一人旅に出て色々あったんだけど、とりあえず演劇にまつわることを書こう。
まず、この前の関西学生演劇祭で優勝した。正確には2位。1位は東京から誘致された劇団だった。東京誘致は関西で一番のぼくら。劇団が目標にしていた「優勝して東京の行こう」の半分「東京に行こう」は達成された。8月に東京で芝居することになった。おそらくぼくも着いて行き、芝居をする。
ぼくも優秀助演男優賞ノミネートまではいった。ノミネートが各劇団から1人ずつ出てるのか、もっと少ないのか知らないが、まあ嬉しいやら悔しいやら。ちなみに助演男優賞を取ったのは大学入学当初から何かと縁がある彼だった。出てた芝居は見に行ってないが、きっと場内をわかしていたことだろう。ぼく役者はもう最後かな、と言いまわってたが、こーなると、やっぱ俺そこそこやるじゃんという奢りと、また今度こそ…と色気が出てくる。現に東京で出る気満々である。出してくれるかわからないけど…

それのごほーびかどうかわからないけど、演劇祭関係者から招待券をもらった。もともと、去年「見学」したワークショップで色々演出として目からウロコが落ちた西尾さん作演だ。貧乏旅行のせいで金欠だったので行くか悩んでたが、タダならと喜んでいった。
終わった後、招待を出してくれた人にお礼を言いにいったら、「手伝う?」と聞かれ、タダだった手前手伝った。いや決して嫌だったわけではないが。簡素な舞台とはいえ舞台スタッフ一人だったので結構働いた。積極的に仕込みバイトには行かない、仕込み嫌いと公言しているぼくだが、一応働こうと思えばそれなりに働ける。久しぶりだったので疲れた。


舞台の感想は終わった直後白紙だった。もともとぼくは芝居の本質は芝居じゃないとわかるわけないじゃんとか思っていて、文章力、表現力のなさを誤魔化す節があるが…。というか、他の人はどうなんだろう、今回に限らず自分よりこう言っちゃあなんだが、頭悪そうな人が一から十までよかった感動した、なんて言ってるのをTwitterやらみると、何言ってたかあんな観念的なことを幼稚な役者、演出で、わかってるんか? と不思議に思う。あくまでも演劇全般の話ね。
と今書いて思ったが、小さい子どもが意外とヘビーなテーマを扱うこともあるウルトラマンが大好きなものみたいなものかもしれない。彼の中で最大限楽しめればいいのだ。

相変わらず文章が横道に逸れる。それで、緑子の部屋の感想だが、釘を抜いたり、箱馬を片付けたり、今こうして書き残そうとするうちにだんだんと感想が定まってきた気もする。

始まる前は、劇の紹介文、
「ある日、緑子がいなくなりました。
緑子の友人、恋人、兄が集ってそれぞれに、自分と緑子の話、自分から見て「お兄さんと緑子はこう見えてた」、「彼氏と緑子はこう見えてた」、「友達と緑子はこう見えてた」、「え、そんなこと言われたくないんだけど」、「や、でも緑子からはそう聞いてたし」、「ていうかお兄さんってサー」・・・・・・。

話すほど、遠のきます。
緑子の不在、ポッカーン。」

からなんとなく、サミュエル・ベケットのゴドーのように、登場人物がいなくなった緑子について話す話かと思った。


違った。


いや、その通りだった。緑子の不在は僕らにとって、だった。登場人物の彼ら彼女らには緑子は存在している。あまつさえ、舞台上で緑子を演じる人もいた。でも、ぼくには見えない。そして、最後ぼくが、ポッカーンなのだ。
考えれば考えるほど、無味無臭のそれに恐怖のような何かを感じる。恐怖は正しくないな恐怖には「色」がある。宇宙をじっくり見たときとか、死について考えてしまった時のソレに少し似ている。

えてして、観客は劇を見たとき、何かを求める。わかりやすい例を挙げると感動、涙。抽象的な芝居だと、おしゃれなスカーフみたいなものに巻かれた主張とかかな。
その中で、緑子の部屋は何もくれない。随分とぶっきらぼうに終わる。空間が心地よく、上手い役者の演技なのでもっと見ていたかったのもあって、「えもう終わり?まだやってよ」となる。その時意識していなかったが、心の何処かで、もちろん綺麗なオチは期待していないにしても、緑子を作ろうとしていたのだろうか。
だから、最初見終わってすぐはぼんやりと空白だったのかもしれない。今だんだんと霧が晴れ、緑子の部分だけ象って空白な感じになりつつある気がする。「鋼の錬金術師」の真理の扉の向こうにいたあいつみたいな感じで。

「ない」という状態はすごいな。ぼくは、この芝居を忘れることはない気がする。旅行帰りとか、バラシ手伝ったとかエピソードが付きまとってるのもあるけどね。

さて。ここからだんだんと思うがままに、芝居の表面的な部分のリマインダーやら演出やら余計なことやらを残しておこう。

舞台は変形。四方の角を挟んだ2辺が客席だった。算数の定義みたいな言い回しだな。
本来の客席はアクティングスペースというか役者のレストスペース。舞台上にあるものはシンプル。それを役者は演技中に移動させてた。なんでか分からないけど…。ソファベッドのセットの作りがバラシて知ったが随分と簡素だった。劇中は思いもしなかった。なにごとも頭の使いようで、予算は浮くんですね。まさか、箱馬ひなだいが基本とは。これ書いていいのかな?

音響は一切なし。そもそもスピーカーがない。日常の音とラジオだけが音源。ぼくは、ああいう音が好きだと前も書いたが、ぼくはちょっと多用しすぎ、狙い過ぎと思った。序盤あたり。

イントロが上手い。すっと入る。アナウンスのあと、役者が入り喋り始めてから、客電が消える。そして、演技が客席に向かって、から、中の人に向かって、になる。何度かその手法を使ってる芝居を観たことはあるが、上手くいってた記憶がないぞ。大抵客席が落ち着かない状態で始まる。役者の演技が上手いから効果的なのか、オペの技術か、二段階がいいのか、脚本がそう求めているのか、お客さんが優秀なのか。

場転を綺麗にする一つの方法を見つけた。どこどこどこどこ、ぬわーん、すっ、て感じ。これで、俺にはわかるからいいや

お客さん少ないな。岸田戯曲賞ノミネートなのに。昨日はイベントもあったから千秋楽少ないだけかもしれない。しかし、少ない。東京の劇団 で、大阪の演劇人は閉鎖的なんか?と思ったり。

どこかで見た演出もちょこちょこあったリアルタイムカメラや紐を縦断させる、ぐるぐる走り出すなど。同じの見た前よりずっと良かった気がする。逆に俺はブランド力で洗脳されてるのか、なにか理由があるのか

結局、失礼というか無粋かなっと思って終わったあと西尾さんに聞けなかった質問何個か、ある。一回チャンスがあったけどその時はまだ頭で文章になってなかった。

一つは、ああいう演出(脚本)はどうやって思いつき、なぜつけようと思うのだろう、という超根本的な話。無粋だ。

かなり砕けたセリフ(説明に擬音語でたり、身振りで押し切ろうとするセリフなど)、どうやって生まれるか気になる。役者に好きに喋らせてるのかとも思ったが、台本をパラパラ読んだ感じ違うようだ。読んでみると、わりと台本通り役者はセリフを発していた。逆に役者はどうして、あんなに生々しく演じられるのだろう。

もう一つは視覚的にどこを見て欲しかったのだろう、という疑問。たとえば四角形の客席の角の部分で役者が一人、大きな身振りで語り、四角の真ん中であとの役者演じ、残りの一片でスクリーンに投影されてる状態があった。たいてい散漫されると、何がしたいねんとぼくはなるが、なぜかあの時は怒りが混み上がらず、ちょっと勿体無いなと思いながら、見たい部分を気の向くまま見ていた。さしあたり、なぜぼくは怒らなかったのでしょう?がび
ぼくの質問か。さあ。

相変わらず、というか去年始めてお会いしたときから西尾さんは不思議な人だと思う。のほほーん、おっとりとして。大変失礼を承知で書くと、なんだか女子校に通う文学少女がそのまま、大きくなったみたい…。
そういう人が書いてるせいか、全く関係ないか、たまにゾクっとするところが芝居にはあった。

最後。女優の武井翔子さんは大変美人だった。