サトくんのブログ

リニューアルに当たってなんかカッチョいいブログ名にしようと思ったけど、ぼくのブログとしか言いようがないや。

タイトル(必須)って言われてもなあ

謎の失踪(?)遂げて突然しれっと書き出した、去年のもの。

考察が浅い。でも日本は自己と客体の境界が本来曖昧なものだと思う。

  • 2016.03.08 Tuesday
  • 01:44
 
多分、タランティーノパルプフィクションのヒットが大きいと個人的には思っているが、1つのストーリーの時系列を逆転させたり、現実と虚構の二重世界(たまにそれ以上の多重世界構造のものもあるがこれは作品として分かりづらすぎて嫌われる)のいわゆるメタものが映画、演劇、小説でよく見られるようになって久しい。実際ちょっと食傷気味ではあるもののぼくも好きである。

これは「新しいもの」として徐々に海外からの輸入品な感じでみんな作家さんやタマゴ達が取り入れてる気がしてたけど、ふと思ったが、これはもともと日本的な発想だと思う。

そもそも、この世界は、時間というものは過去今未来と流れているのでは「ない」し、私とあなたと他の人に区別は「ない」し、現実と虚構、夢の世界と世界はわかれてい「ない」。そもそも因果自体「ない」。このことに私達は最近気がついたように錯覚している。

英語圏の人は最近気がついたと思う。そもそも英語(とその親戚言語)は気がつきにくい性質を帯びている。過去形などの時制、一人称、二人称、三人称、仮定法と中学高校で習う文法事項だけでもこの性質が浮かびあがる。言語は思考方向そのものを制限する。おかげで発明もするが。

一方、日本語は上にあげた3つに対して無茶苦茶弱い。挙げるときりがないが、例えばバスはまだ来ていないのに「バスが来た(過去形?)」"The bus is coming(現在進行形)"とかね。古文をあげれば本当にきりがない。つまり、本当の世界を描写するのに日本語として本質的には正確なはずである。気がついたのではなく実は初めから知っていたのだ。

だからどうこうってわけじゃないけど。

そんなことをデビッドリンチのインランドエンパイアの裕木奈江のコテコテの日本語英語聴いてて思ったり。つーか、インランドエンパイアわけわかんねえのに見ちゃうね。5回みた。単純に3掛け5の15時間みてることになるのか。あとこの前、タラちゃんのグレイトフルエイトも観に行ったのもあって。相変わらずの面白さだった。前半いつも以上にかったりーけど。