内緒だよ

リニューアルに当たってなんかカッチョいいブログ名にしようと思ったけど、ぼくのブログとしか言いようがないや。

結んで、紡いでー

街は夕刻を迎えていた。夕焼けはゆっくりと沈下していき、空気は天頂から淡く群青に染まり始めている。

まあ、今学習塾で偉そうに「国語」なんて科目を中学生15人くらいの集団授業でやってるわけでして。結局、高校の時には2大絶対になりたくないなと思っていた職業、医者と学校の先生しかも国語の先生、に片足づつ突っ込んでる状態でして。
そんな自分の今フラフラしてる状態のことを書きたいんじゃなくて、なんとなく言葉、言語、日本語について書きたくなった。

中学生なんて頭の悪い生き物で、特に作文添削なんてすると文章がボロボロで読んでいて頭が痛くなる。奇書を読んでいる感覚と似ている。ある種それはドグラマグラ。だから楽しくもある。それに文が崩壊しているから内容の理解に苦しむのだが、内容そのものは模範解答だったり、自分が事前に予想する解答よりずっと面白いことを書いてくる子もいて、この添削作業自体は嫌ではない。自分自身の文章はおかげで向上しているのか、むしろ引きづられて低下しているのか、わからないが……。

言葉について、というテーマの作文課題を頭を捻りながら「無難な」解答に添削していると、ある女子中学生の作文で手が止まった。


「言葉についてわたしが思うことは、とても言葉は難しいと思うし、わたしはよく何言ってるかわからなくて、よく友達に『何言ってるの?』とわたしは言われます。」


無茶苦茶だ。でも名文ではないかもしれないが、言葉に踠き、足掻きながらも生きていることが伝わってくる気がした。
人は「言葉」によってものを考え、記憶に留めておき、他者と意思疎通を図る。
もちろん相手の表情や声のトーンなどノンバーバルなコミュニケーションもあるが、「言葉」の呪縛から逃れることはできない。
小説家や詩人、劇作家や俳優は言葉を駆使して、自分の世界に他者を招待しようと苦しみ続ける人達であるとぼくは思うし、そうであって欲しいと思う。逆にミュージシャンや画家は他の手段、つまりミューズを音や絵の具に託す。

言葉は不完全だ。言葉では伝わらないものも沢山ある。しかも日本語なら日本語を習得している人にしか伝わらない。でも言葉を使わざる得ない。ぼくは楽器も碌に弾けないし、踊れないし、絵も齧ってすぐやめた。あなたも、もしかしたらぼくよりずっと踊りが上手いかもしれないけど、例えば、友達に「この前、四国に旅行行って来てさー。はい、コレお土産。」というのをいちいち曲にして表現するわけにはいかない。会社で「〇〇くん、この書類のコピーを300枚とっておいてくれたまえ」「あっでも、事務所のコピー壊れてますよ」というのを上司と部下で踊って伝え合うわけにはいかない。はたから見ると面白いけどさ。

ぼくも女子中学生だったとき、今よりも自分の中で、感情、思い、気分、その他もろもろはもっと深く渦巻いていた気がする。昔のことで忘れたが。今よりも、いや今も大してないけど、語彙も文書力なんてなくて、渦巻くものを言葉にすると、途端にひどく陳腐な、手垢のついたみすぼらしいものに成り下がってしまうことは目に見えていて、むしろ必死で言葉にならないように抗っていたんだと思う。でもそれは逃げだ。言葉から逃れることはできない。ミューズは戦う者に微笑む。

この子の文に、朱を入れる作業はただ文を腐らせている気がした。