内緒だよ

リニューアルに当たってなんかカッチョいいブログ名にしようと思ったけど、ぼくのブログとしか言いようがないや。

役者01

東京公演降板したのは悪いことしたなあ、と。そのあとも何回か役者しないかと言われたし。読んでて、ほーんそうか、役者さんってそんなこと考えてるのねえと、他人事な感じ。

  • 2014.03.13 Thursday
  • 19:00
 
いやあ、終わった終わった。

わりと早よ終わらんかな、出番少なくて楽ーとか思ってたけど、本番が始まり、終わってしまうともっと出たかったな、と思う毎回恒例のこと。

しかし、まあ役者として、練習量とか、演出に色々指導を受けた芝居というより役者個人の能力としては今までの役者をちょろちょろやってきた舞台の感覚に頼った芝居だった。

つーか薄薄気づいていたが、俺役者としての能力は六風館の引退公演以降向上してない。そもそも向上心がない。まあそれでいいんだけど。

まず致命的なのは、身体の軸がブレる。例えば、椅子から綺麗に立ち上がろうとすると一瞬グラっとする。1年前から気にはしていて、こっそりダンスの練習とかしていたが、この年から始めるのはやはりキツい。というか結局そこまで熱心にはなれなかった。
だから歩き方もちょっと誤魔化して歩いてるな俺、と感じるところがある。

今回出なかった癖としては歩くとき、ぼくは右手だか、左手だかが揺れない。まあ気にしてポケットに手突っ込んだり、小道具もったりして隠していた。どうしようもないときは意識してふって歩いてた。人間歩くとき自分の手の位置を考えては歩かないからそれはそれで不自然だが。

小手先で演技してたなと思う理由としては基本的に、顔と手だけで演技してた。しかもわりと客席から遠いので顔はあまり見えてなかったと思う。稽古期間的にも模索するのは無理があったな

本番で、というか小屋入ってから気にしてたし、前にMUSE見た時もなんとなく思っていたが、ZAZAの小屋は声が響きづらい作りだった。
音量の調節に苦労した。
特に、芝居の第一声がぼくで、客席に向かって喋るセリフではない、「白石さん、こんにちは」という工夫もしようがないセリフで参った。
思うに、最初のセリフというのはお客さんの耳にチューニングの役割りがあると思う。
小劇場には珍しく、舞台に高さがある舞台であり、一番前の客席ですらわりと距離があったので照明があたると、お客さんの様子が舞台で演じながらだとまるで見えなかった。
稽古段階でもう少し距離のイメージを持って声をだす練習をするべきだった。いやまあ、してたんだけどね。演出に声出しすぎって言われてね

ちょっと思ったのは、上手い役者というのは、足音がうるさくない。そこはぼくはわりと上手く行ってた。

まあ、他にも反省点やほかの人に思うところは色々あるが割愛。

最後のステージのオチは理想の受け方だった。顔をピクピクさせて

結局のところ、打ち上げが楽しくて参加してよかったと思えた。達成感あるし、酒のみが多いし楽しく騒ぐ人もいる し。
実は一番嬉しかったのは、二次会で女の子たちが俺のことかっこいいみたいな話になった時、目の端で某地下アイドルちゃんが、うんうんって頷いてたのが見えたことだ。って今書いて思ったが、それがメイドちゃんらのアレでアレすることのアレなのね、あぶない。

観劇05

これもむっちゃよかった。でも今もう一度見たいかと言われると、うーん。

ちょっと遅咲きの太宰中毒がこのごろ始まった。

  • 2014.03.09 Sunday
  • 23:48
 
メイシアター グッドバイ

すごかった。
一瞬たりとも無駄な時間がなかった。
「三時間があっという間だった」なんて言葉は失礼なんじゃないか、と思うくらい。
とりあえず順番にその時思ったことを書いていこう。

むちゃくちゃ楽しみにしていた。
明日から小屋入りで最終稽古だというのに無理やり行かせてもらった。
嗅覚的に行かなきゃって感じた。
大抵、今まで生きてきて劇に限らず、有名ラーメン店にしろハードルをあげてあげ過ぎて得したことなんてほとんどないんだが、むちゃくちゃ観る前わくわくしてた。わかってたけどわくわくしてた。観ることできることが決まった前日、青空文庫を読んで観劇の準備をしておいた。文章がやや古いとはいえ、短いこともあり、話もユーモラスかつ少しセクシーですらすら読めた。太宰治は国語の教科書で「走れメロス」を読んだくらいだ。昔中2くらいのころ「人間失格」を読みかけてやめている。なぜ読みやめたかは忘れた。

余談になるが昔、国語の時間走れメロスの授業で褒められたことがある。
「メロスは何回走るのをやめたか?」と聞く先生の質問に対し、多くの人が手をあげた回数(何回か忘れた)よりひとつ多い回数の時に手を挙げた。ぼく一人だった。「最後処刑を見守る群衆の前で足を止めたはずだ」と答えた。だからどうだという話だが。まあ国語の授業っぽくもう少し答えると、メロスの最後の障害は、自然災害でも、自身の諦めでもなく、物理的な大衆である。といったところだろうか。今更だが答える。
いくらなんでも脱線し過ぎ。劇の想いをなんとか文面に残しておきたいのに。

メイシアターに入ったところから。
つい最近クラシックコンサートに行ったときも思ったが、ぼくは小劇場よりもああいう少しインテリジェンスな娯楽施設が好きなようだ。ホールの匂いのようなものが。
座席は直前に予約したので、一番後ろ。でもちょうど真ん中だし、なんとなくでもお客さんの様子も観れるからいいや、とポジティブシンキング。後ろの人に気を使わなくていいしね。そういえば隣の席に座ってた美人さんこの前みた劇に出てた女優さんでした。Twitterでグッドバイの感想見てたらその人も呟いてたので確定だな

ただ一つ非常に残念でならなかったのは、客席の傾斜角が緩やか過ぎる。前のお客さんの頭で、足元が見えない。役者が手前のほうで座るとかなりつらい。楽日じゃなかったら手前のほうの席でもう一回見たいくらいだった。ホールの設計者が悪いなこりゃ。おしゃれだったし、座りごごちも良いほうで金がかかってるなあって感じだが、少し想像力が足りないな

あ、あと後ろにもともとスピーカーが設置されていたみたいだ。

ようやく劇について書ける。
ややこしい、観念ぽいことを並びたてられた、めちゃくちゃな劇を覚悟していたが、予習の成果か、そこまで難解ではなかった。むちゃくちゃ過ぎな劇はぼくは嫌いだ。なんか適当にそれっぽいことを並べて、頭いいと思い込んでいるブランド信仰の観客を煙に巻いてる気がしてならない。そんなこと、劇中でも言ってたな。あれは俺だ。と思った。太宰治か、演じてた役者さんか、作演の山崎彰さんか何かわからないけど、舞台に存在する何かが、アレは俺だ。と思った。そうなれば勝ちだ、と思う。そこから完全に惹きつけられた。俺に向かって言ってるって思った。言葉に聞こえるが、なにを言ってるのかわからないとかいうセリフも俺の最近の悩みだもの

太宰治は、アレは俺のことだ、と思わせる作家さんかもしれまない。好きな伊集院光人間失格読んで、過去の写真を全部破棄したと言ってたし、好きな三浦大輔も人間??失格書いてるし。サブカルというか、アウトローというか、中2心の人に「クル」のかも。終わったあと、山崎彬さんも残りのパンフレットに太宰治になりきって書いたって書いてた。

脚本、演出、役者、スタッフそれぞれ素晴らしかった。いや、「それぞれ」という言葉は適切ではないな。全てが、「必要」があって、天からか、神からか、そうあるように求めていた。
だからいつもみたいにこの照明はよかったとかこの演出いいとか、書けないのだが、それでもメモように残しておこう。
まず、会話のリズムが良かった。「会話」だった。一秒たりとも無駄がなかった。全体的な演出レベルでも、役者個々人の演技、声のレベルでも緩急の付け方がよい。文学っぽいところや、いかにも小劇場っぽいロックなところ、アドリブなところのバランス、移り変わりが綺麗だった。やっぱり、上手い役者は酔っ払いの演技がうまいな。酔っ払いシーンは楽しかったし、それでも飽きてしまうギリギリのところで移っていった。
発想として地味にぼくにはなかったのは、音楽、音の使い方だ。バイオリンが小さくなってるところとか、なんであそこで鳴っていた方がいいと思うかわからないが、本能的に訴える何かがあった。変な演出だとは思うが邪魔にはならない、前述の「天」が要求してた。ペンの音、BGMとかもそうだ。
楽日に行ったのでもう何度か見て研究できないのが惜しい。

ミステリー好きとして、キヌ子は太宰治の作家をはいだ津島修二だったというミスリードもうまい、やられたと思った。演劇なら男女にこだわる必要はないもんね。深読みすれば、飲み屋の大将を女性が演じてる時点で伏線貼ってるもんね。しかしまあ女優さんの、下衆なキヌ子から男への演技、剥き出しな感じ、すごかったな。普段役者が良くても、「うまいなあ」くらいしか思わないのだが、凄まじいと思った。服を脱ぎ化粧を落とすとき全てが脱ぎ落とされていた。

難解な話ではなかったと書いたが、充分難しい話だった。でもなんかよくわからないけど、説得はさせられた。世の中の物語はそんなものだろう。原作の再現も見事だった。あれこそが原作に劇として血肉を与える行為なんだろう。キヌ子にしろ、美容院にしろ、味の素にしろ

劇中何度か聞くグッドバイ、安易なはずなのに、グッドバイと発せられるたびにやられてしまった。青木とのシーンでのグッドバイは、あれ?そんな感じなのって思ったが、最後の飛び降りるグッドバイはもう、全身が震えた。

赤い傘がポツンとおいてあるのは、色彩としていいね。

観客含めて劇は完成する、というぼくの想いも具現化されていた。笑い声にしろ、教養にしろ、あの勘違いの拍手にしろ。あれ全部ひっくるめて劇なんだろ

つーか凹むのが、今まで書いてきたレポを見返せばわかる通り、観劇した後俺ならそのテキストもっと面白く演出できたねってところがなんとなくあるのだが、もうどうしようもないな。しかも劇作家でもあるなら。
2000円、3時間でこの満足なら、観劇のペースは落ちるだろうな。とりあえず、太宰の小説読もう。って明日小屋入りだべ。がんばるんば

観劇04

匿名劇壇はそのあとに観たやつがむっちゃよかった。いまいちハマらなかったってのを控えめに偉そうに書いてる。「照れ」云々は鋭い指摘だと思う。

  • 2014.03.05 Wednesday
  • 23:31
 
匿名劇壇
ポリアモリー・ラブ・アンド・コメディ

ようやく観にいけた。
少なくともこのブログを始めてから、初めて劇の内容そのものに漠然とした感想をもった。

少し混み入った内容だったとはいえ、話についていくのに必死だったわけではないが、分かりづらかったところがちょこちょこあったように感じた。こちらの読み取る力やわざとの部分もあるだろうが、役者とか演出の問題で。もちろん全部、観客に理解させる劇がいいとは少しも思わないが。

途中の相関関係の組み込み方はよかった。自分でだせえ演出、って言ってる照れも含めて。表面的な人物関係の話ではない。

微妙な会話のズレと、その劇団のノリみたいなものを知らないのが主な原因かな。
あとたまに入るモノローグの組み込み方がやや気に入らなかった。音照というより役者の演技が。もっとメリハリというか、映画媒体ならもっとよくなったらろうなと思う。

導入部分で特殊設定を観客に理解させることに気を取られて、物語そのものを導入させ損ねてた気がする。ぼくが丁寧にチラシやら挨拶だの読んでたからか、設定は別にいいよ知ってるそれよりこれからどう観たらいいのってなった。宣伝を含めた総合芸術として考えると、大半のお客さんは知ってたんちゃうかな

ほかの作品をだすのはどうかと思うが、三浦大輔の「愛の渦」のほうがよりむき出しに、よりエキサイティングに似たテーマを描いてると思う。

途中ワインのコルクを抜きグラスにそそぐシーンがあった。前のイッパイアンテナのときも書いたがぼくはああいう音がどうしようもなく好きなんだな。ポン、こぽこぽ、ぽりぽり。

なんか面白いこと登場人物皆言ってたと思う。劇の内容に踏み込みたいって書いてて結局書いてないな。
コンスタントにああいう内容を継続して書けることはすごいことやと思う。

「愛」ってなんやろうなあっていうのはぼくもよく考える。
で、お前にとって愛って何よ?

くだらねえ、

なのって終わって帰り道言いたくなる劇だった。

他の作品を観てないからわからないが、この劇団は脚本演出出演の「照れ」で出来ているのかもしれない。むちゃくちゃ手放しに面白かったわけではないが、今後も観にいくと思う。

観劇03

解散したんだっけ。漠然と覚えてる。子供巨人好きだったしね。ハチャメチャ系よりストレートプレイが。

  • 2014.02.24 Monday
  • 13:29
 
2/22 芸術創造館 イッパイアンテナ、オール

ずっと行きたかった劇団についに行けた。
客演を見てて、思ったが役者さんが良かった。上手い。でも、嫌味にならない。

1、2分遅れてしまった。早く行き過ぎるか、ギリギリにしかいけないのか、ぼくは。自分が作るとき、後から来る人のことを想定して作ってないのだから遅れていくのは本当に良くないな。

ちょうど、午前中稽古しててちょっとやり過ぎだなと言われてしまい、自分でもちょっとそうかもなあと思ってたところなので、役者さんの演技は見てて気持ちよかった。流石京都。なのかもしれない

ぼくが敏感すぎるせいかもしれないが、ちょっとした物音で集中できなかった。幕裏とか裏から出てくる時の音とか。裏だとミスが起きた?といらぬ心配してしまう。

会話のテキストはこなれていたが微妙にリズムが悪かった気もする。特にシーンとシーンの突然変わるところが空間的にはよかったがリズム、時間が微妙にずれていた気がする。

視覚的にたとえ暗くても、役者さんが魅力的で、まだ見ていたいと思ってしまい、目の端でおってしまって次のシーンにすぐに集中できなかった気もする。

あと実験的な演出が全て上手くいってたとは思えなかった。このへんも劇に入り込めない原因かも。

印象的だった演出をいつかパクるときのために、俺だったらこうする。を最後過剰書きに残しておく。

・ミニチュアの影による都市の表現→投影されるスクリーンが近く、視覚的にも低くく、場所が散漫していたと思う。もっと高く伸びる影が中心から放射状に伸ばしたほうが都市の表現になるかも

・星、オリオン座と北斗七星→星の明るさが均一なのが気になった。

・時間帯がダンボールになかからの明かりで、時間帯が表記される。→微妙に場所が悪かったかな。下手より中心上空のほうが見やすいかな。あとできるなら同じ場所がよかったかな。

・テレビの画面がついたまま暗い状態でテレビの明かりで照らされる役者、ぶび。→よかった。いつか使うかも

リノリウム床とキャリーバッグの音→狙ってたか、わからないがあの音はよかった。

・落語→上方落語なのだから見台を見たてたなにかが欲しかった。あとやっぱり落語を見下ろすのは違和感あるな、演劇のなかの落語とはいえ。客席に入ってくる演出もあんまり。クールキャッツさんはすごくプライベートの落語家のときはすごくっぽかったが、落語を話だすときは落語家じゃないなと思った。落語家特有の雑さ、枕は一字一句覚えているわけではない感じとか、噺の入り方とか、もっと研究して欲しかった。あんな若手落語家がいたらファンになるな、と思ったぶん。要はぼくも自分が詳しくない分野を扱うとき、熱心な人がどの程度までなら許せるかを考えなきゃいけない。

・紙吹雪→ラストの盛り上がりなのに上を見てしまった。他の役者がセンスで仰ぐのあの人達なら許せる。

・ラジオ→素直によかった。ところどころ聞こえるどうでも良さげな、会話とかリアル。もうちょっとだけシーンと偶然話題が絶妙なバランスでリンクしてたらオシャレだったかも。あとオールナイトのビタースイートサンバをパロったオープニングにして欲しかった。楽曲提供もあったようなら。これもぼくが詳しいジャンルだからか。

・電車通過の明かり→メモように
 

ワークショップ01

まあ印象深い。サリングさんとタニノさんを知ったのだから。

タニノさんって医者なんだね。ちょっと前タニノさんの岸田戯曲賞受賞作読んだんだけど、ものすごく面白かった。おかげで演劇はすごいと思いなおした。

  • 2014.02.18 Tuesday
  • 12:00
 
2/17 芸創ラボ、だんさ 芸創

ワークショップに参加してきた。前回の役者ワークショップの見学がすごくよかったし、今回は演出を中心としたワークショップだったので演出として参加した。

広い空間で舞台セットを使って演出させてもらえるだけでぼくにとってはとてもありがたい。

こう言っちゃあなんだが、かなり上手くできた。時間内になんとかちゃんと作るし。
結構褒められていたと感じる。後だしジャンケンなところもあったが。
ボイスレコーダーで録音しておけばよかった。音楽的に捉えている。とか、鋭い客観的な視点を持っているとか。
嬉しかった。様式美とも言われた。それは鍋の底を見せることもしれないとも言われた。もっと挑戦していいかもとも。
そこで、二回目は囲み、観客を舞台セットに配置してみた。ぼくにとってかなり冒険的な演出だった。正直、みんなに見られながら15分かそこらで演出したため、出来上がったら疲れてしまって、段差とかそれによる効果を客観的に考察する余裕はなかった。でも、みんなの反応を見る限り上々かな。

あとで舞台美術の竹越さんから興味深い意見が聞けた。今回のように5分ほどのシーンだと面白かったが、90分だとかそこらだと客席の体勢的にもストレスがかかるだろうと。役者が見え隠れするのも5分と90分だとまた色々考えないといけないかなあ。私見感で芸創で囲み舞台の美術を担当するらしく(軽く耳にしていたが)、その視点で見ていたと前置きした上でそう話していた。

今回は時間の都合もあり、偶然性を期待していたが、長期だともっと綿密に練らないといけないかもしれない。

だんさをテーマに考察したかったがアップアップで余裕がなかった。特に自分の作品に関しては。他の人は空間でテイストを変えてしまっていたので見抜きにくかったかな。段差による空間の断絶と段差は単純に高い低いではなく、客席との距離によって効果が生まれると感じた。

最初と最後の講師陣の話が聴けなくて残念だった。飲み会は、知り合いになれてよかった。
ワークショップ中は良くも悪くも目立っていたのではないか。社交的ではない以上、劇そのもののセンスで人を求心したい。

まあ、でも「俺すごいかも」と思うところもゼロではないが、テキストそのものチカラだと強く思う。セリフがとても詩的だった。サリングさんの言葉、ト書きを素直に奏でるだけで良かったのだから。

観劇02

まったく覚えてないなあと思ったら寝てただって。

半分寝ながらよくわからん映画観るの最近好きだけどな。

  • 2014.02.15 Saturday
  • 12:00
 
2/15 MUSE、top girls 道頓堀ZAZA

前回ほど長々とは書かない。そしてかなり批判的だと思う。
まず、断っておくが途中寝た。初めて観劇中寝た。
見てないものを批判するのは、一番やっちゃいけないことだと思う。でも自分の中では体調もあるだろうが、最初40分くらい見て、だんだんこれはずっと見てなくていいやって視線が下に行き、音だけでいいやと瞼を閉じ、次第にこれは今まどろんで徹夜に備えようという判断になっていった。

言い訳がましいが、始まる前は期待してた。演劇祭の優勝候補で、前回主演女優賞、助演女優賞をとっていて芸大主体で半ば強制的にライバルになるから見ようと今参加している劇団に言われ見にいったのだから。早めに着いたのもあって、一目舞台美術を見て長年の勘で一番いい席であろう真ん中一番前に座ったあたりでも自分の期待値が伺える。

まず最初まずかったのは、場内スタッフはおろか舞台監督らしき人までウロウロしていたことだ。そして小屋の都合上か知らないが、客席と舞台の間を通って幕裏に移動する。俺一番前なのに。なんか不安になる。
開演15分遅れアナウンス。
そして早めに来た(団体行動したから)せいもあるが、やはり待ち時間がながい。

暗転。これも小屋の使用か、幕裏が明るい。明かりがつく。
ここまでは正直その後が原因で上乗せされている。その時ははっきりとは自覚していなかった。

うわさの女優お二方は上手だった。どの人か知らなかったし、今なお知らないが、おそらくあの二人だろうと検討がついている。他もノットバッド。まあ、上手い役者は鼻につくし、演技も幾ら翻訳ものとはいえ吹き替え映画みたいでやり過ぎ…とも思ったが。

まずびっくりしたのが翻訳ものだったということだ。独特の癖があり、セリフも長く、知識も乏しいので1980年代のイギリスの時事とか教養としてない。
チラシやパンフレットは、そんな感じは全くしなかった。というか脚本家の名前がない。あとで調べたら、キャリル・チャーチルさんという方らしい。ただ脚本に外国の名前が載っているだけでもこちらの覚悟が違う。タイトルからも想像してなかった。それを勢いよくやられる。次々と30秒ごとに一人ずつ出てきて気付けば6人だかがディナーしてぺちゃくちゃしている。置いてけぼりだった。多分客席みんなも。新しい登場人物というのはかなり便利な存在なのだからもっと大事に扱ったらどうだろう。

そしてその後のシーンの長いこと長いこと。よくわからない内容を女子会のごとく陽気にぺちゃくちゃぺちゃくちゃずっとしているというテキストなのだが、(調べたらテキストにここから同時に喋るとか指定されているらしい)本当にずっとやられると困る。

平田オリザさんがよくやるらしい、同時発話も空間に断絶があり、取捨選択状況下によって初めて効果を生むと思う。

そもそも同時に誰かが喋るというのは非常に現実的なものに見えて、繊細に扱わないと段取りになるし、機からみる「観客」が主体である以上なんらかの効果を本能的にしろ感じてもらはないとダメだ。

つまり、
1、同時に登場人物らが会話することにより観客がどちらの会話を聞くか選択させ能動的に劇に入り込むことを期待する。選ばない会話も無意識下で聞いてはいるので全くわからないということはない。
2、どちらかの会話が本題でもう片方は雑音であるという扱い。誰かが喋り続けるの皆黙って聞いてるのは不自然であり、よりリアリティな空間を期待している。
3、喧騒のシーン。どの会話も対して聞かなくてよい。ただ明確にセリフはあり、無意識には受け止めてほしい。

以上の3つに分かれるのではないだろうか。多分平田さんは1、についてもっと詳しく考えているのだろう。
ぼくは1、2、にはとりわけ音楽的感覚が必要だと思う。

そうそう女優さんがたもまだまだだなって思ったのは酔っ払う演技が下手だったことだ。酔っ払う演技ができる役者はホンモノの役者だと思う。

ここまでは見てた。その後の場転がダサかった。ブル転。で、なんか作業してるのが見える。いやまだ一回目は許された。次のシーンはたった5分。でまたブル転。この次くらいで見るのをやめた。

何かの演出指南書で、暗転に時間がかかりすぎるくらいなら、お客さんは不測の事態が起きたか、と思う。それくらいなら見せてしまえとか書いてあり、なるほどなあと思ったが、考え直す必要があるかもしれない。というか、ブル転も暗転とは別にまた使いどころというものがあるのだろう。最初のブル転は別に許容できたもの。ラーメンズとか参考になるかもしれない。よりシーンが断続になるのか。

で寝たので何が起きたか知らない。

起きたら、ラストのお二方の剥き出しの言い合いになっていた。

それなりに剥き出しの迫力があってよかったかもしれない。まあ前を知らないからわからないが、登場人物が情緒不安定で、非常にそれが西洋人的で鼻で笑いそうにもなった。
翻訳ものをいつかしたいなとぼくも目論んでいる。
どう日本人が演じるか。は大きな問題だと思う。反応を全て日本的に落とし込むと脚本とずれが起きるだろうし、日本人が日本語(翻訳のクセはあるが)で喋る以上欧米人のマネもまた滑稽だとも感じる。

終わったあと、サトくん寝てたね、と言われたが、つまらなくて寝てたというよりかは色々見つけてそれが話を阻害してたから寝てた。実際脚本は難しい内容だったが面白そうだし、外国人が演じた映画なら見てみたいと思った。

観劇01

観劇01

つーわけで引っ越しついでに今のぼくがちょろんとコメントもここに書こうっと。

たしかこれ以前も感想をクラウドには書いていたけど、発掘してみたら文が散っていてよくわからん。

たしかに鴻上はつまらんと思う。脚本が手に入りやすいからじゃない?

  • 2014.02.14 Friday
  • 12:00
 
2/14 劇団六風館、ビーヒアナウ 大阪大学大集会室

今年から観劇記録とか演劇っぽい活動の糧になりそうなことをウェブ上に公開しようと思う。続くかどうかわからないが。発信することで何か発見があるかもしれない。

今年初観劇は去年まで、所属していた劇団六風館のビーヒアナウだった。鴻上尚史の。

なかなか作品にパワーがないと、ぼくは「俺だったらこうするのになあ」とか「このアイデアいいなあ」とうがった見方をしてしまうのだが、それに加え彼らの友人というか先輩として色々と見ちゃうのでタチが悪い。おじいちゃん目線というか。なるたけめんどくさいOBOGみたいなるのよそうとは思っているが、それでもね。

とりあえず、がんばってたと思う。役者にしろ、演出を含めたスタッフにしろ。努力が伺えた。ただ悲しいかな、努力したからと言って必ず面白い素晴らしい作品になる世界ではないなと思う。
具体的にいえば、役者はそれぞれ発声にしろ動きにしろ、良くないと全員自覚はしてた。ただそれでも、まだまだで滑舌は悪いし、他の伝える技術もろもろで、セリフの内容の3割も客席に届けられてなかった。
そういったことが各スタッフでも感じられた。制作とかもね。宣伝がんばってたみたいだが、暗転中に案内するとか、傘を帰り番号札引き換えに預けたのに勝手に持って帰れとかはいかがなものか。

思うに鴻上さんの脚本は、(この言い方はかなり乱暴だが)今の人達にとって興味が持てないものだと思う。もちろん人それぞれ好みはあるだろうが。

誰かが言ったが世の中の物語というものは広義にはミステリーである。ぼくもそう思う。
序盤にある謎が提示され、それが徐々に深みをまし、最後はどういった形にせよ解決。
という乱暴なテンプレートがある。

つまり最初に提示された謎がいかなる理由にしろ興味をそそられるものでないといけない。一度誘いこめば後は上手く誘導すればお客さんは自分達で勝手に歩いてきてくれる。

例えば、最初に魅力的なパフォーマンスをするのも手だろう。男前や美女が最初に出てればみんな舞台を見てくれる。今思いついたが幕が明けてすぐに舞台上でセックスしてたら、"disgusting!"なんて淑女の方は思いながらも目をそらせないでいるだろう。
まあ、そんな露骨なことをしなくても(むしろぼくは露骨なことはしたがらないほうが好きだが)脚本か、演出にパワーが必要だ。

で、まあ鴻上さんの脚本には序盤に引き寄せようとする要素がテーマにしろ小道具的エピソードにしろ展開にしろ現代人にとって興味もちづらいものだぼくはと思う。
興味を持ちづらいというよりも手垢がつきすぎていて、それでいてヴィンテージまでたどり着いてないものだと。
例えば、キーワードにしろテーマにしろ「いじめ」とかいうワードはこう言っちゃなんだが古い。「震災」とかも切り取り方によるけど、またか…となる。
ぼくが乱暴なのかもしれないが、他の人もどこか心の片隅で思ってしまっていると信じてる。
これは大量生産大量消費社会における病める現代人が悪いのだが、この話は脱線だからやめる。というか、これ自体ちょっと手垢ついてるし。
そして何よりも主張が何処かで聞いたことをわざわざ「演劇」を使ってやってしまうのがまずい。

先程のいじめを例に使うなら、「いじめ」をテーマにされてるとしよう。これ自体、テレビや新聞で議論され尽くされてる気もするが、まだいい。議論し過ぎて悪い問題では決してない。
ただ、そのあとがまずい。「いじめられているほうにも原因がある」といった展開になりだす。この主張自体にぼくが賛同するかどうかはさておき、こんな意見わざわざ、劇場に足を運ばなくても聞ける。そして中途半端な王道ではない道でもある。王道の良さもなく、邪道に良さもない。その辺のセンスが時代遅れだなあと思う。
ある程度テーマが古くなってくるとそれはそれの良さがある。例えば、「愛」とか。これはもうギリシャ時代だがなんだが知らないが、今なお人を魅了する要素だろう。

話が強烈な鴻上批判になってしまった。
そうじゃなくて、ぼくは演出家になりたくて、鴻上さんの脚本は当時はさておき現代においてそういった風だから、それを意識して演出する必要があるなあ、と思ったって話。脚本の力だけではなかなかお客さんが引き寄せられないから、色々と時に大胆に時に繊細に補佐する必要がある。
パフォーマンスとかもそうだが、僕だったら役者の演技を多少、演劇特有の「ウッ」とした感じがしたとしても、ハッキリとした喋り動きを役者全員にたいしてベースに要求したと思う。そこからどこをどこまで抜いていくか、の作業で作っていく。くらいしか思いつかない。

あと、思ったのはぼくは、各々のシーンがカッコイイかのウエイトが比較的軽いほうだと思う。そこにそれほど魅力も感じてなく、演出もその傾向にあるだろう。どちらかというと全体が綺麗に重なって昇華するほうにウエイトをかける。まったくのゼロではなく、スタッフに迷惑をかけているときもあると思うが、台本が要求する最低限と全体を統括するためにカッコイイは作っているようだ。
だから、音響、照明さんでカッコイイものを作れる方をぼくはとても大事に思う。舞台は助け合いだもの。


おそらく、こういった感じで、演劇的イベントを経験したらブログを書いていこうと思う。だから、正直、その作品そのもの感想はほぼゼロだったり、ある点を批判したりしていくと思うのでタイトルに見た芝居のタイトルはいれないで、検索されにくくしよう。じゃあなんで、ウェブ発信。孤独と自己顕示欲かな。いやきっと何かのためになる。