内緒だよ

リニューアルに当たってなんかカッチョいいブログ名にしようと思ったけど、ぼくのブログとしか言いようがないや。

ぼく「〜〜」 文脈「!?」シュババババババ(走り寄ってくる音)

自分の中でびっくりしたってことなんだけど、ボヤ騒ぎがあったもんだからちょっと覗いてちょっと嘆いて、バイト終わってテスト勉強から逃げるためにちょっとブログ書いて、朝起きたら妙な文脈が生まれてしまったことに気がついた。

ホントに、たまたまで、どっちかっていうとブログの方は、漠然と俺の日常生活で感じたこと、強いて具体例をあげれば、(ほんとはあげたくなかったが)、劇団六風館の日誌を10日の一度くらいツイッターに流れてきたら読んでいて、勝手に懐かしがったりしていたのだが、その時、3回生の人達のを見て感じたことから出てきたものなんだ。
前回の話のポイントは「自虐」で、他にも南キャンの山里とかに感じるだが、女のコからキモがられてますよ〜ってスタンスでいくと、そう思ってなかった女のコに他人をキモいと思うひどいコってレッテルの刃物を渡してるんじゃないか、と思うんだよ。加害者作り、とでも言うような。それをノリで書いたの。

あとで読むと「おじさん」「おばさん」「毒舌」とかいうワードが妙な繋がり生んだような気がして。ほんと別件なんだけど。

 

でもほんとに別の話なんだろうか。

 

ぼくという存在が連続している前提なら何かしらやっぱり繋がっていて、ぼくが「おじさん」「おばさん」という言葉を、中年齢の方を指すとき、ぼくの頭の中では「おっさん」「おばはん」とか他の単語も浮かんでいたはずで、その中で「おじさん」という言葉を選んだのは、無意識に、大いなる力が働いたのかもしれない。その他の事も。その日ならその日で一日、あるいは一生あった事象は連続しているのかも。

小説や脚本を書いていて、割と適当に設定したことがあとで繋って、「登場人物が勝手に動く」ってのはたまに経験する。これは結構楽しいことなんだが、現実じゃあ、意図しない文脈生まれちゃうのは、まいちゃうよナァ。でもそういうもんかもナァと思う自分もいる。

記事更新ついでにボヤ騒ぎについてもちょっとだけ書くけどさ、僕なんだかんだ、いいとこ育ちやから優しくて、バカ見るとバカだバカだって攻撃するオフェンスモードよりも、バカだなあ他人から攻撃されるってツラいよなあ可哀想だなあとヒーラータイプになっちゃうの。実際なんも回復魔法使わないけど。なんか俺のなかではミカエルっぽいデッカい天使が祈りのポーズしてる。可哀想だなあ。

いつぞやの王道がどうこう言ってた人はホントにバカ、というかゆとりで「わからない政治用語が出てくると他人に教えて欲しくなる」とか「笑い8割感動2割、この言葉は誰でもわかる(わかんねーよ)」とかゆとり全開な自分がバカって気づいていない気の毒なバカで、今回の金ヅルどうこうの人は、言ってることは割と普通な、ただ口の悪いバカ。残りの記事は単純につまらん。俺が言うのもなんだが、文が下手。

炎上系サイトといえば音楽評論サイトでBってのがある。あっちも、まあまあ読んでてげんなりすることもあるけど(たまにしか読まない)、悪ふざけにセンスがあるし、なんとなくヒロイズムというか、「こんなこと言ってるけど、ぼくなんか……」っていう破滅的な自己愛が感じられる。劇作家が言葉で負けてどーする。

炎上って、たまーに話を聞きつけると、ちょこっと覗きに行くけど、本気で憤ったり、相手を言い負かしてマウント取りたいとか、ただの野次馬というより、自分は、ああ燃えてるよ、可哀想、可哀想って側でおろおろして自分の中の天使を見つけに行ってるのかもね。ぼくって優しいね。優しいなあ。


前回、ラッパーとかリリックとか言い出したの、某DJのせいだと思う。世界は繋がっている。

生まれ変わったらラッパーになりてぇ

ぼくは20中盤で、もう、なのか、まだ、か、わからないけど、少なくとも自分のことおじさんだからさあ〜とは言わないのは、加齢に抗いたいって気持ちももちろんあるんだけど、どっちかっていうと自分より歳下の20くらいが、おじさんだの、おばさんだの自嘲してるのは敏感ではないにしろ、あんまり気分が良くなくて、ということ30の人にとっては25がそんなこと言うのはムカつくことで、ってことはドミノ倒し的に90でも100でもムカつくのかなって思うんだよ。

何が言いたいかっていうと自虐って意外と傷つけてるぜ、人。
それは毒舌という言葉で表現されるような人達よりも、無自覚であるぶんタチが悪いぜ。
ちょっとリリック浮かんじゃったかな?

とある先輩がめんどくさい。

どれくらいめんどくさいかというと、もう本当にめんどくさい。

普通ひとって何か二面性というか、複雑でこんがらがったものを演じながら生きているのだと思うが、もうその人はめんどくさいだけで構成されている。俺が役者でそういう「めんどくさい先輩」を演じることになったとしても、もう少し色々考えて、寂しさとか哀愁とか、でもめんどくさくなっちゃって、それを多少は自覚していて、それでもめんどくさくなっちゃうってぐらいには役を作るぞ。知らんけど。

案の定、周りからも嫌われてるようだ。

周りとか悪口とか、どうでもいいが、俺は嫌い。

というより、やっぱりめんどくさい。嫌うのには体力が要る。

僕は頭がいいから、そういう人に対しても、適当ににこやかに言われたことはする。

でも、僕は、頭が悪いから、顔に出る。めんどくせぇな、お前って表情をする。多分バレてる。

まじめんどくせぇー。

 

 

明日は、二重盲検法でする上、自分も被験者になるから、十二時以降カフェインをとるなと言われていたんだった。寝てしまおうか。

 

 

病理テストが近い。朝早く起きよう。朝起きようと書いたら起きるのだろうか。とにかくテストは近い。

 

 

GW中に彼女と別れた。これについてはフィクションで昇華しよう。

 

え?

 

 

去年の岸田戯曲賞読んでみた

演劇も、小劇場も商業演劇も観に行くことは、お金もかかるし、10個のつまらないものを観て1個、天帝に捧げるような素晴らしい作品を探すという作業にも疲れているので、芝居というものに触れることは極端に減った。が、戯曲は「読み物」だったり、演劇界の流行り、作家の叫びを知るものとして、今でもたまに読む。戯曲は、小説に比べて読みづらいという声はあるが、そこを苦にすることは自分にはない。昔取った杵柄、というほどたいしたものではないが、まあそういうことだ。

「せりふの時代」休刊は、もうだいぶ前のことになるが、非常に惜しい。「悲劇喜劇」は観劇レポートやら役者のインタビューやら、俺にとってどうでもいいことが多い。普通の文芸誌も読めばいいんだろうけど。(ときおり戯曲も載っているのは知っている。)とうきょう、でやってる観ても読んでもない芝居レポについて読んだところでね、、。

そういうわけで岸田戯曲賞ははるか南の国に住む田舎者にとって「かー、とうきょうではこんなものが流行ってるんだべさあ(ぼくは博多弁、というか九州弁が喋れない)」と知るのに、嬉しい機会だ。ノミネート中はネット上でノミネート作品が全部公開されていたらしいが、2月下旬は忙しかった。選評も、高名な作家先生たちが、どのように戯曲を読まれるのか、どのような議論がなされるのか知れて、楽しい。もはやぼくは演劇人やアーティストという言葉でくくられるような人になるつもりはないし、そもそもなれていたのかって話で、ただ楽しいのだ。

演劇の行く末を嘆かれても、勝手にやってろ、って話である。環境に適さない動物は進化をするか、絶滅があるのみである。

去年のタニノクロウ作「地獄谷温泉 無明の宿」は素晴らしかった。読んでいて心が動かされ、それこそ天帝に捧げてあった。戯曲でここまでの傑作であるのだから、生で観たらどうなっていただろうと、ただただ興奮した。たまたまジュンク堂で見かけて、一応知った顔(向こうは覚えていないだろうけど)だったので買ったのが、ラッキーだった。
自分の凡庸な言葉でこれ以上飾るよりも、ここは前述のご高名な作家先生方の選評のお言葉を少し引用しよう。

「他の候補作品が言葉との必死の格闘があらわななか(おそらく誤字であらわれたなか?)で、見事なまでの言葉からの解放を感じさせた。地獄谷の温泉宿の冷ややかな空気の中で人たちの微熱と発熱のドラマと言えるだろう。」岩松了
「タニノ氏の書く言葉・会話は、端正で、色っぽく、抑制が効いていて、でもムチムチしている。」岡田利規
「森に響く様々な声が聞こえるような神話的世界は、読む者を奇妙な世界に誘う。これはまぎれもなく、すぐれた「戯曲」である。」宮沢章夫

ほかの選考委員、ケラさん、野田秀樹、オリザ先生も「地獄谷温泉」についてはべた褒めである。どう?読んでみたくならない?

宮沢章夫が、「不幸なのは、「戯曲」を発表する媒体がほとんどないことだ。上演さえ決まってないテキストを、「戯曲」として読むことのできる場所がないことだ。」と、「台本」と戯曲の違いを言及したあと、最後の締めくくりとして書かれてある。あれ?俺ここからパクッてるだけじゃん。創作者サイドの嘆きがそれならば、こっちは受け手側の嘆きだ。最新の完成度の高い戯曲を読む機会はほとんどない。

で。ここまでが去年のお話。
ここからが、今年の岸田のお話。

の、前に、「岸田」のことってどれくらいの人がこれ読んでる中で、ピンときているのだろうか。
一応書いておくと、「芥川賞」の演劇版って答えを、芝居、といえば劇団四季をイメージする人(素人、一般人という表現がナンセンスなのでこんな表現になった)には言っている。
じゃあ「芥川賞」と「直木賞」の違いは、というと芥川が新人の純文学寄りの作品が獲る賞で、直木はエンタメ小説のベテランの人に贈られる賞、かな、、、、それ以上詳しく俺に訊かないでくれ。ウィキペディア芥川賞受賞作品を眺めると、そういえば話題になったね、と、19歳で獲っていたり、お笑い芸人が獲っていたりするなかで(この2作品は読んだことあるし、それ以降の作品も好きだ)あまりピンとこない名前もちらほら見かけるが、直木賞はわりと今でも安定して小説を書いてらして、読んだことはないにしても、名前は聞いたことがある人らが名前を連ねていると思う。

ぼくは一応大阪弁は喋ることができる。ミナミはちょっと難しい。人生数えてみてもまだ半分は関西圏に暮らしていたことになる。
関西人からは「自分、標準語やんな~?」言われるが、「そうですか?でも、ぼく関西以外の人からは関西弁や、言われますよ」ってちょっと標準語っぽいのを関西のニュアンスで喋る。「ぼく」の「く」のほうにアクセントを置くのがコツ。あとは波打ちながら、上がっていくイメージで喋る。まあ適当に使い分けてる。話す時、オチやボケを探して話すのは関西人らしいか。実際ボケるかどうかはさておき。

せやからな(※露骨なアピール)、西成とかスーパー玉出とかは常識的には知ってんねんけど、ほんまあの辺は大阪の人でもようけ近寄らんとこで、おっちゃんとかは、わりとファンタジーやねん。
ぼくが中川家の出身地でお馴染みのとこに住んでた小学生の時は、昼からパンダ公園で酒呑んでるおっちゃんらはおったけどな。それのもっとディープ版やぁ、思っとるわ。

ほなダラダラ書こっか思うねんけど、去年の岸田と違ってもう、アホの塊みたいな作品やから、内容についても書くで。ネタバレは気いつけるけど、こんなブログ読む暇あるなら、紀伊国屋でも行って買うてきいやって話や。今やったら売ってはるわ。

「来てけつかるべき新世界」ってええタイトルやなぁ。
「けつかる」ってのはなんとなく意味はわかんねんけど、説明出来へんな。調べたら、

けつか・る [1]
( 動ラ五[四] )
〔近世上方語以降の語〕

「ある」「いる」などの意で卑しめていう。 「やあここに-・るか,よう舟へ石打つた/浄瑠璃・今宮心中 上」

補助動詞) 動詞の連用形,または,それに助詞「て」を伴った形に付いて,その動詞の示す動作を卑しめていう。 「なにを言って-・る」 「よろつきながらにらみ付,どうずりめ覚えて-・れ/浄瑠璃丹波与作 中」

って出てんけど、よぉわからんな。なんとなく下品な感じの言葉で、自分で使ったことはないわ。
「来るべき新世界」やったら、あんまパッとせんもんな。やっぱ「けつかる」ってのが要るんや。あとはこれは言うまでもないけど、「新世界」はダブルミーニングやな。

戻そう。ぼく、あんまりヨーロッパ企画自体、最近のは好きじゃなかったんですよ。「サマータイムマシンブルース」や「冬のユリゲラー」とかは、完成度が高いと思うし、上田さんのドラマ脚本は知らずに観て上手いホンやったなあ誰やろ、思ったら、あ、ヨーロッパ企画の人のやー!ってのは、しょっちゅうなんですけど、劇団では最近当て書きが悪い方に転がってみんなヘラヘラしていて。ヘラヘラが悪いとは言わないんだけど、最近ストーリーが存在しなくなって役者がヘラヘラしてるだけって気がして。それはホンにも現れていて、やたらと「~ネェ?」っていうドグラマグラっぽく男もカマトト臭いセリフが所々見られてなんか気持ち悪かったんです。
今回は河内弁で、まあ確かに読む関西弁って結構違和感あったりするが、そこは当然クリアされていて、ヘラヘラしてるのも大阪のおっちゃんやから、ヘラヘラどころかグダグダしていてもそんな感じやんもんなで気にならずに読める。そこにロボットやらドローンで話す人物が登場するもんだから戯曲を読むときに浮かぶ風景が面白くて面白くて。これは上演台本だから、それ以外にもいっぱい笑いどころはあったと思うし、文字ではイマイチなギャグも生身の役者がやったら面白いのもあるんやろうなあって空想しながら読みました。
野良警備ロボット、パトローが勝手にコンセント抜いて充電するとことか、戸惑うとことか、可愛くて笑ってしまった。特に二話がお気に入りだ。オチもベタなんだけど、ある一定のメッセージは持ってるし(それは今回ぼくにとってはあんまり、どうでもいいとこなんだけど)、ドキっと怖くて笑える。
サマータイムマシンブルースに代表されるような上田さんの圧倒的伏線回収能力を堪能出来なかったのは残念かなあ。確かにフリとボケが全般的に近い。

終盤近くのセリフ「お盆には帰ってくるし」は誰も選評で直接触れている人はいなかったけど、このセリフはすごい。いっちゃん伝えたかったことちゃうか?

トウキョウが藝術の町じゃー、トウキョウがーって文句言ってるわけだが、ヨーロッパ企画の公演はこっちでもやっていて、要は演劇へのアンテナを張ってないだけだね。まあでも、演劇ファンでも、芝居の内容そっちのけの俳優ファンだっているんだから、戯曲を読むのが好きな劇場に行かないヒキコモリがいたっていいんじゃない?

 

 

癌についてちょっとだけ

癌(悪性腫瘍)ってのは厚かましいやつで、人の身体のなかで、勝手にどんどん大きくなって、勝手に人の栄養どんどん奪っていって、叩こうにも身体の色々なところに移っていって、そこでもひっそりと様子を見たり、また隙をみてどんどん大きくなって、正常であるべき場所にある細胞を押し抜けて組織をむちゃくちゃにしてしまう。という風にぼくは理解している。正確ではないが、それほど適当なことも言ってないだろう。腫瘍のことは別名、新生物とも言ったりする。

病理で癌の標本スライドを観察する実習があって、先生が繰り返し、癌細胞は悪い貌したやつだからと言っていて、比喩表現をやめろ、細胞に顏も糞もあるかよ、どこが正常でどれが癌かわかんねーよと思いながら探していたが、なるほど見慣れると癌は確かに悪そうな貌をしている。

癌細胞のもう一つの特徴として、癌は各細胞ごとにそれぞれ貌つきが異なるというのがある。全員貌つきはもうむっちゃ悪そうなんだけど、それぞれ個性がある。

「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」
ってのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』冒頭の一節で、これが一般的に言えるのかどうかわからないが、癌細胞に関しては正しいらしいです。

ラインで用件や連絡をわざとちょっと放置して既読つけるのやめろ。恋愛か?

 

言いたいことはそれだけですね。別に字数的にツイッターでもよかった。

 

 

 

 

 

 

#・3・#

#・3・#じゃあボクと話しない?

ああ、うん。

#・3・#最近どうなん?

まあ、そこそこ、普通に。

#・3・#よく文章書いてるようだけど

それは文章が上手くなりたいと思って。そのためにはとりあえず書くことかな、と。ブログは特に他の媒体と違って気軽に、思ったことを、さほど吟味せずに、フランクな文体で書くのにちょうどいいから

#・3・#一番世界に発信されてるけどな。

……。

#・3・#ボクは誰?

わかんない

#・3・#自分はラインでそういうことしないの?

いや、することはするけど、なるべく気がついたらすぐ返信するようにしてるかな…忘れるし

#・3・#50人くらいのグループになるとしないじゃん

まあ、してないね…でもバンドとか5,6人なら…相手が1人ならすぐに…

#・3・#「ありがとうございます!」とかは、言わないよね

うん、まあ…

#・3・#人に感謝を伝えられる人って素敵だよ?感謝は言わないと伝わらないんだよ?

はい。

#・3・#「コ○ドームしない男は挨拶しないのと同じ」ってKタカが言ってたけど、お前挨拶もあんましねえじゃん

いや、それはちょっと違うような……

#・3・#ん?

コン○ームは置いておいて、えーっと、挨拶はしないわけじゃなくて、この人には挨拶するのに、この人には挨拶しないって区別するのが申し訳ないから、顔見知り程度ならいっそのこと挨拶しないって選択をとることが多いだけで、現に患者さんとか、バイト中では誰にでもするけど……

#・3・#誰にでもしたらいいじゃん。向こうがどう思おうと。発想がコミュ障。「オレまじコミュ障だわー」とか言ってるやつよりずっと。

そうかも…

#・3・#ラインの返信は結構努力して治したよね

うん。経験的に治した。既読をつけずに中身を見て放置ってのは優しさに見えて、一番相手に偽ってると自分は思うから、その時忙しくても確認するくらいの時間があれば確認だけはする。ぼくが本当に見てないときとか、スマホを持ってない時だけが「既読」のレスポンスなし。

#・3・#女の子のときはそうじゃないことも多いよね

うん、まあ。基本的にあの人達ってこっちが返事を30分後に返すと1時間、半日だと1日とかかかってる返ってくるから。

#・3・#下心がバレてるんだって。女はエスパーだから。ちょっとでも上手いこと転がんねえかなとキミの浮気心がでるとテレパシーで伝わるんだよ。現に、どーでもいいと思ってる人には返信にストレスを感じることないじゃん。つーか何?童貞?中学生?

で、偶にそういう駆け引き?をする子と、チャット状態になると、飛んでくる文の速さで、あわわわわってなっちゃう。

#・3・#メールでコミュ障ってヤバイな。てか「寝かす」って考えはなんだ。料理か何かか。

とにかく恋愛的なアレでは、そういうもんかなあと思うし、ぼくも使っちゃうけど、どうでもいい用事とかにはとっとと返事、せめて既読つけてレスポンスをしろと言いたいんだよ。スタンプで「今忙しいからあとで返事する」スタンプとか作ればいいのに。それに人の忙しいってのも限度があるだろ。少なくともオレが連絡をとるような人は。周り見渡すとみんな基本スマホいじってるんだし。

#・3・# ……。

……。

#・3・#終わる?

終わろうか。じゃ

#・3・#

 

#・3・#

#・3・#ボクはなんなの?

酔っ払いさっちゃん酔っ払いながら、これまでで生涯で傷ついた言葉を発表する

いぇーーーーーーーーーい
人を傷つけた言葉は俺は覚えちゃないが、人に傷つけられた言葉は、ねちっこく覚えてる。
例えば、昔に大学の同学にミス研(推理小説研究会)に入ってることを言ったら「え、あんな部活入る人いるんだ」とか。最初の「え」で君もミステリ好きなの?って聞いちゃった。これは傷ついた。あのブス眼鏡のことはよく覚えてる。名前を言ってもいいが、それぐらいの理性は酔っていても残ってる。
あと、再受験した手前、平日に行くのはいやだったから妹の体育祭にかこつけて、母校の担任の先生に挨拶うがかったらうっかり同級生2人組に会ってしまって、他の同級生の話になって1年か2年大学に入ったあと仮面して医学部に入ったOくんについて「人生迷い過ぎだろw」って言ってたあの女とか。流行りかなんかしんねえが、バカ殿みたいなクソったれタレ眉毛メイクをしていた。お前、高校時代オレのこと好きって噂流れてたの知ってんだぞブス。でめえは、名前だけが有名な私大に推薦で入って、親のコネで地元に入社したんじゃねえか。そろそろ25だし、人生のどっかで迷ってればいいなって思うよ。

よし。太文字にするぐらいの理性も残ってるぞ。

で、多分一番傷ついた言葉の話。
英語科の友達が、ゼミの先生に英語の本一冊読んどけと言われたらしく、そういえばあんた、そういうの詳しいよねって訊かれたんでこっちはミステリオタクなのをオタク特有の早口にならないように気をつけながら「クリスティとか読みやすいんじゃない?」とか薦めた。ちゃんと読んでくれた。その子はいい子。

しばらくして、どうだった?と聞くと、そのゼミの先生は「あ、フィクション読んでるんだ」と言われたそうだ。

「あ、フィクション読んでるんだ」

その先生はノンフィクションしか読まないそうだ。
この台詞はヤバい。フィクションなんてこの世でどうでもいいんだとしたら、ぼくの友人の9割方死んでいる。作家から単なるアニメオタクまで。全員死んでいる。ぜーんぶフィクション。

この世界のある種の現実はフィクションでしか語ることはできないんだよ。ほんとに。
これはオレの言葉じゃないけど、そうなんだよ。
英語圏を語るのに聖書を知らないなんてちゃんちゃらおかしい。聖書は、フィクションだからこそ紀元前何世紀から今までずっーと、根付いていて、めんどくさくもあるけど(昨日インターフォンに出たら、おばさんが「私たち、聖書を研究するエホ、、」と言われてガチャって切った)、それは精神で、それは言語まで深く根を下ろしている。英語は比較的若い言語だ。オレはラテン語は医学用語の単語しか知らないが、ラテン語もそうだろう。
シェイクスピアも無視できない。オレは今まで一度も言語を専門的に勉強していないが、それぐらいはわかる。

オレは作家でもないが、作家に会ったことはあって、作家が妄想を書き留めていると思うならバカも大概にしろ、と言いたい。
作家は自分の妄想を書き連ねているのではない。自分の現実を書いているのだ。それがどんなに荒唐無稽な話に他人からみられようと、現実だ。首が切断されたあと奇跡的にダルマ落としで他の人の胴体とくっついてしばらく生きていた話も、男の前に蛇が母親として現れる話も。

オレは本ならミステリやSF、純文、他には演劇や音楽、絵画が好きだが、そのジャンルを攻撃する人たちの気持ちもわかる。くだらないかもしれない。オレにも嫌いなジャンルや話がたくさん溢れいてる。この世界のある種の現実はフィクションでしか語ることはできない。だから世界には物語があるし、世界に留めておこうとする人がいるんだ。

「あ、フィクション読んでるんだ」

この言葉はぼくの友人(それは仲がいい人もぼくが苦手だった人も)全員に内包して喧嘩を売っている。大学で専門にドイツ文学を研究している人(個人的にはそれじゃあ食えないだろとは思うが文学を前にそんなことどうでもいい)、売れないミュージシャンや役者、ただの漫画好き。
脳の論文とかしか、その先生は読まないそうだ。ブローカー言語野とかウェルニッケ言語野とか、まさに俺が読まないといけない話だろうけど、それも大事で、とっても面白いのだが、「物語」を全否定する姿勢はホント、ヤバい。だから、クソみたいな大学で教授とかいうクソみたいなことやってるんだろうと思う。会ってもいない先生にここまで敵意をむき出しにする。

くやしいなあ、ムカつくとか、ヤバいとかしか言えないなあ。
くやしいなあ。くやしいなあ。酔ってるなあ。